永遠の謎 8

2008.10.18 Sat

今日は久し振りに子ども時代の話である。

私のこれまでの人生で一番嫌な年、中学1年の時の話だ。

中一の担任は英語教師であった。

人間は諦めが肝心?


テストを返すときは成績順で返し、悪い点数だと
「人間は諦めが肝心じゃ〜」と言いながら渡した。
また、黒板に出て答えを書けないでもじもじしていると やはり
「人間は諦めが肝心じゃ〜」と言って席に戻した。

この言葉はまたたく間にクラスの流行語になった。
そうこうする内に担任が言う前に
「人間は諦めが肝心じゃ〜」という子が出てきた。そしてクラス中がワッと爆笑の渦になるのだ。

また、担任がその言葉を言うのを受けて
「ナムマイダー チ〜ン」などと合いの手を入れる子も現れた。
その度にクラスは大爆笑であった。

私は最初から、この言葉が怖くて身を小さく縮こめていた。

例え自分に言われたのではなくても 自分のことだと思っていた。ましてクラス中が大爆笑の時は、笑っている皆が優秀に思えて ますます身を小さくした。

担任と目を合わしたら「人間は諦めが肝心じゃ〜」と言われるのではないかと思い、いつも下を向いていた。

あれから何十年も経つが、あの1年間のことは頭にこびりついている。
確かに 人間諦め時を見極めるのは大切である。しかしそのことを分かったのは30過ぎてからか?いやいや30代はまだジタバタもがいていた。50過ぎてようやくその言葉が腑に落ちるようになった。

なぜ13歳の子ども達にあの様な言葉を投げかけたのだろう。今もって腑に落ちないことである。
また、あのクラスの中に私と同じ気持ちの人がいたのだろうか?それとも あの担任のお陰で楽しい毎日だったと皆思っているのだろうか?
すべて永遠の謎である。

人の目(担任)を気にし オドオド劣等感の毎日は思い出してもぞっとする。
私しゃ子どもの頃から気が小さ過ぎたのかね!



年を重ねたお陰でこんな事も書けるのです。私しゃ年をとってからの方がずっと心が楽しむよ。
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  1. 2008/10/18(土) 21:31:01|
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可哀想な娘

2008.10.14 Tue

今日も可哀想つながりの話である。

私は母方の祖父には会ったことがない。
私の影も形もない、母17歳の時に亡くなったと聞いている。母は時々 その亡き父親の思い出話をしてくれた。

可哀想な子、、、

母は5人兄弟の末っ子で、物心がつく頃には母親(私の祖母)は病気で寝ていた。起き上がって何かをする姿を一度も見ないまま6歳の時に亡くなったという。
父親(祖父)は幼い末っ子の母をを不憫に感じたのか、それはそれは可愛がり、他の兄弟姉妹とは別格の扱いをしていたと言う。

母にとって父親(祖父)は神様・仏様・お父様ってな感じだったらしい。その父親は再婚もしないまま、母が17歳の時に亡くなった。
それ以降 母にとって父親(祖父)は思い出の中に生き続けたのである。優しく、暖かく、力強い父親像が色あせることなく生きていたのであろう。

私が15歳位の時である。
母は思い出話の後 ふとつぶやいた。
「うばゆりチャンは可哀想。優しい父親の思い出が一つもなくて」 と。

言っている意味が分からないものの 胸にズシンと来た。

私の父は家族への優しさとか暖かさとか思いやりとかが一切無かった。だからといって虐待を受けていたわけではない。手を上げられたこともないのだが。

確かに 今思い出しても「優しい父親の思い出」は一つもない。しかし あの風変わりな父はまさしく私の父であり、反発をしつつも多いに影響を受けていることは否定できない。

今、私は「優しい父親の思い出」が無くて自分自身が可哀想とは思わない。しかしその言葉を口にした母の心を思うと胸が痛むのである。


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  1. 2008/10/14(火) 22:27:15|
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永遠の謎 7

2008.09.06 Sat

給食のおばちゃんは救世主

小学生の頃、救世主の様に優しいおばさんが我が家に良く来た。

元々は伯父がやっていた出版社の事務員だったとか。儲からない出版社をさっさと畳んで、伯父は新聞社に勤めてしまった。

職を失った、このおばさん、(おばさんと言っても30歳くらいの独身女性)は小学校の給食調理員になった。

給食のおばさんは仕事帰りに残った給食を持ってきてくれた。週に3〜4回は来ていたと思う。
いつも皆 大喜びでコッペパンや野菜の煮付け等を貰っていた。

欠食児童が蔓延している時代だ。食べ物を貰える程有り難いことはない。家中で心から親切な優しいおばさんと感謝していた。

何故か毎日のように来るのに家に上がったことはない。いつも玄関口で立ち話をして帰って行った。

かれこれ2年くらいは給食配達は続いたと思う。
突然何の前触れもなくおばさんは来なくなった。
おばさんは隣町に住んでいたが所番地までは知らなかった。
「今日は来るかな、、」と初めのうちは期待をし、次に
「おばさんどうしたのかね〜」と心配し、、、いつか忘れてしまった。


話題にも上らなくなってから何年か経ち、私が二十歳くらいの時 母がポツリと言った。

「給食のおばさんね。来なくなった直後にお隣さんに言われたんだよ。あの人は旦那さんの愛人だよ。知らないのはお宅の家族だけで、近所中 皆知っているよ。」と

母もその時半信半疑の様子だった。聞いた私も、あの救世主のようなおばさんが?と信じられなかった。

その後の父の行動と照らして、あの噂は本当だったのかも知れないと今は思える。しかし問いただした訳でもないし、現場を押さえたわけでもない。
今となっては永遠の謎である。


年をとるのは嬉しいことだ。ドロドロしたことも、思い出サラサラになってくる。
給食のおばさんに会いたいな。生きていれば80半ばだ。
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  1. 2008/09/06(土) 21:30:45|
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永遠の謎 6

2008.08.27 Wed

変なおじさんの極めつけが、父の親友であったガオさんである。

このおじさんは「オーイ、マサいるか?」と言いながら家に来る。いや、来ると言うより声と共に上がっている。
「今日は」とか「ごめん下さい」「今晩は」等という挨拶を聞いたことが無い。

そこに私たち子供がいても、全く意にも介さない。ほとんど空気か壁の様な扱いで、目も向けなければ声も掛けない。
おじさんは「おまえ等みたいに10年15年の付き合いじゃない。俺とマサは30年以上の付き合いだ。年期が違うんだよ。」と堂々と我が家に座り込んだ。

あの当時の大人はおしなべて子供に愛想を使ったり、迎合することはなかった。みやげも酒とか佃煮で大人用のものばかりだ。その上我が家に来る変なおじさん達は全員手ぶらだった。

究極の自由人

おじさんは陶芸家だった。有名な賞を取ったときは写真入りで全国紙に載ったほどである。

立派な腕を持っているのに日常生活はハチャメチャで型破りだった。
50歳頃、借金で身動きがとれなくなったおじさんは家や土地、窯を妻の名義に変えた上で離婚をした。そして行きがけの駄賃に車を借金で買い それに乗って遁走した。
れっきとした犯罪者である。しかし、誰かが尻ぬぐいをしたのだろう、警察に追われることはなかった。

その後は東京で気儘な一人暮らしをし、60歳を過ぎた頃養老院に入った。

学校時代の仲間で最後まで生きたのがこのおじさんで、
父の死もひどく嘆いてくれた。

父の死後、養老院に訪ねたことがある。病院に養老院が併設されていて、本館は広く立派だった。その入り口を一歩入った所にデンとおじさんの作品が飾られていた。ロビー中央の壁面前にもおじさんの大きな壺が飾られていた。どちらも立派な飾り台にガラスケース付きで作者名も堂々と付いていた。

おじさんは相も変わらず変な人だった。養老院の陶芸室の主になり、えばりくさっていた。「オレの一番弟子だ」と70代の老人を紹介された。皆に先生と呼ばれて陶芸クラブで好きなように作品を作り、毎日、食事とトイレ、寝る時以外は陶芸室にいると言う。
「田舎に帰っても、息子と喧嘩ばかりだ。好きなものを焼かせてくれないし、土だって自由に使えない。それに比べてココは良いよ」と大満足の様子だ。

おじさんの不満は「部屋が3人部屋で狭いこと」と、「金が無くて酒が思い切り飲めないこと」だと言った。

80歳を過ぎても「一人一部屋をよこせ!」と待遇改善を要求して国会前で座り込みストライキをしていた。

おじさんを訪ねて、養老院の暗いイメージは吹っ飛んだ。どんなところに住もうが 本人が楽しめばそこが天国なのだ。
しかしあのパワーはスゴイ。迷惑を受けた人は数知れないと思うが、あそこまで徹底し、生きることを楽しめばもう感服だ。


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  1. 2008/08/27(水) 21:24:56|
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永遠の謎 5

2008.08.26 Tue

昨日山師のおじさんのことを書いたら、次々と変なおじさんのことを思い出した。

山師のおじさんや父と同郷で学校も同じだったキタオさんというおじさんがいた。
このおじさんはその頃知っているどのおじさんよりも恰幅が良くハンサムで紳士然としていた。パッと目には大会社の社長か大地主に見えた。

ところが、このおじさんも父と同じ「自由業」であった。
定職を持たず、色々なところへ行っては日銭を稼いでいた。

おじさん達の共通点は、力仕事は嫌い、頭を下げるのは嫌い、定時に出社するのは嫌い、、、。 サラリーマンは勤まらない面々であった。皆、若い頃は会社勤めをしていたと言うが、私が知っている頃は「自由業」であった。

仕事が無い日は、朝から我が家に遊びに来た。
父がいようといまいと関係なく何時間も過ごしていた。

自由業のおじさん

撮影所で働いていた時の話は今でも忘れられない。

あの頃 一番人気があった某女優の身辺警護をしていた。子供の私でも知っている銀幕の大スターの事をゾクゾクしながら聞いたものだ。

その女優さんは可哀想なほど細くて、腰の回りには座布団を巻いて着物を着ている と言うのだ。

その女優さんの写真を見る度に「あの着物の下に座布団を巻いているのだ!」と一人秘密を知っている顔で納得していた。

今でも 活躍中の岸K子さんは折れるほど細いが、まさかもう座布団は巻いていないだろう。

生涯定職を持たず、妻や子に苦労を掛けたまま、50前にそのおじさんは亡くなったとき聞いている。

一生を自由業で過ごしたおじさんは本当に自由だったのかな〜? 今では永遠の謎である。


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  1. 2008/08/26(火) 22:05:06|
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永遠の謎 4

2008.08.25 Mon

子供の頃、学校の調査書に父親の職業欄というのがあった。
父はそこに「自由業」と書いていた。父は定時に会社行くとか、一日中店番をやるとか言うことはなく、適当な時間にどこかに出かけ、適当な時間に帰ってきた。

いつも煙ったい存在で子供達は誰も馴染まなかった。その頃は何処の家でも似たり寄ったりだったと思うが、我が家はかなり重症の方だった。

外面(そとづら)が滅法良いらしく、よく友人が訪ねてきた。学校時代の友達は全員 勿論父も含めて一風変わった人ばかりだった。
「朱と交われば赤くなる」とか「類は友を呼ぶ」の通りだ。

その中でも良く思い出すのが、ミツイさんだ。

山から出てくるおじさん

毎年、おじさんは正月になると何の前触れもなくふらりと来て、三が日が過ぎるとスーと消えていた。

おじさんには帰る家も家族も無く、故郷にも事情があって帰れない。それだけでも謎めいたおじさんなのに、話が飛びきり面白いのだ。

おじさんは山奥の鉱山に住み込みで働いていた。タコ部屋とか飯場とか言う怖い場所だそうな。鉱脈を探す山師なのか、鉱物を掘る人夫なのかよく分からないが毎年違う山から下りてきた。

東北の山から来た時には、泳ぐように雪をかき分け道無き道を山から下りたとか、、、

静岡の山奥から来たときは、道路も電車もなくて、トロッコで仕事場から出てきたとか、、、

本にも出てない話を身振り手振りでしてくれるので、私は身を乗り出して聞いていた。両親も兄も何故か話に耳を傾けなかった。弟はまだ幼くて興味を示さなかった。
私がお話を独占して「それから、それから」と続きをせがんだ。
聞いていて これ程想像力をかき立てられた話は後にも先にも他にない。

毎年、正月だけ来ていたおじさんは、ある時からふっと来なくなった。
おじさんに家族ができたのかな?それとも故郷に帰れるようになったのかな?まさか落盤事故とか、、、そんなことはないと思うが。それとも父と喧嘩をしたのかな?

おじさんは「この仕事は年をとったらできない」とよく言っていた。お爺さんになったおじさんはどうしたのだろうか?
気になることは沢山あるが、その後の消息は聞いたことがない。
おじさんのその後は永遠の謎である。


もしかして、アレはホラ話だったのかな?
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  1. 2008/08/25(月) 21:21:03|
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隠したつもりがバレバレ〜

2008.08.02 Sat

ホオズキの実だけ無い!

朝、庭の見回りをしていたら、、ウ?何かおかしいぞ。

上から見たら何でもないホオズキ、横から見ると
アレマ〜、猿に赤い実だけ全部食べられていた。

まだ酸っぱい青い実は手も付けていない。
赤い実は袋を破って 中の実だけを食べて猿は去ったのだ。

とんでもない猿知恵だ。
残った青い実は、ちゃんと色づいた頃又やって来て食べるだろう。

赤い袋を残しておけば、食べたことがバレ無いと思っているのかな?

コレを見て、小さい頃の嫌なことを思い出してしまったよ。


5歳くらいの時の話である。
ある時、母が弟を連れて出かけ、私一人が何故か留守番だった。
丸い線が気になって!

留守番のお駄賃としておせんべいを貰ったのだが、母の足音が聞こえなくなった時にはもう食べ終わっていた。

その煎餅は小麦粉を焼いたもので、多分誰かのツテでまとめ買いをしたものだったのだろう。一斗缶にぎっしり入っていた。

南部煎餅にそっくりな形で、丸い形の中に丸い線が入っていた。

もっと食べたい私は、考えた。
缶の中が減れば食べたことがバレる、、、。そこで丸い線まで食べることにした。全部の丸い線が無くなれば良いと思ったのだ。

食べた、食べた、どれも皆外側をくるりと食べたのだ。
線にこだわり、もう仕事のようにせっせと食べた。
缶の底まで手を突っ込んで、残しが無いようにシッカリ食べた。

バレ無いと思っていたが、帰ってきた母は直ぐに見つけた。そしてひどく叱られた。

「食べたかったら、欲しい分だけをちゃんと食べなさい。」と。

叱られたら とても恥ずかしくなった。
今思い出しても、馬鹿なことをやったと恥ずかしくなる。

5歳の私は、猿の知恵より劣っていたのだ。トホホ・・・

ところで、回りをかじったアノ煎餅はどうしたのだろう?多分物のない時代だ、みんなで最後まで食べたのだろうね。わが兄弟よ ゴメンナサイ!


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  1. 2008/08/02(土) 21:49:15|
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怖い風呂

2008.07.31 Thu

昨日、ある方のブログを訪問したら、タライの話であった。

タライにまつわる「たがが外れる」の絵もあった。

その方のコメント欄には 「タライ」や「たが」を知らないという書き込みが沢山あった。

ええっ タライを見たことがない?
タライで行水って分からない?

私しゃ自慢じゃないが、ドラム缶風呂にも五右衛門風呂にも入ったことがあるよ!

ここは一丁書かねばなるまい。
半世紀以上前のことなので、不正確はご容赦下され。

昔の風呂 色々

戦後間もなくの頃、祖母の家に行った時のことである。

戦争で焼け出されたのか、それとも単に貧乏だったのか、祖母の家は掘っ立て小屋のようであった。

広い庭の隅にドラム缶が置いてあり横に踏み台があった。
まるっきり 丸見え状態である。

風呂を沸かしていた記憶はないので多分湯を上から入れたのだろう。

さて自分が入る番になった時の恐怖は今でも鮮明に覚えている。
ドラム缶を覗くと 深い底なし井戸の様に見え 小さな私には簡単に入れない。頭からドボンと落ちるのではないかと本当に怖かった。
後のことは何も覚えていない。 昭和22年頃の話である。



五右衛門風呂は小学校時代の体験だ。

小学校4〜5年頃、母に連れられて田舎の伯母の家に旅行した。

夕方、お風呂に案内されたのだが、見て驚いたの何のって!
お化け鍋のような大きな鉄風呂なのだ。風呂の上には木のフタの様なものがぷかぷか浮かんでいた。

「木の上に乗るのよ」と確か伯母さんは言っていたけれど、どう見てもフタに見える。フタに乗るのはいけないと思い、
持ち上げようとした。ところが重くて持ち上がらない。

裸のまましばらく考えていたが、勇気を出してフタに乗ることにした。フタがグリンとひっくり返ったらどうしよう。フタの下に入りおぼれ死んでしまうよ。本当にそう思った。

風呂の縁をシッカリと握り、足を中央にそろりと置いた。

死んでもこの手は離さないぞ! の覚悟で入ったのだった。

入ってしまえば普通のお風呂と何ら変わりがなかった。
しかし、入るときの緊張感と風呂の縁をシッカリ握りしめた感覚は今でも覚えている。


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  1. 2008/07/31(木) 21:27:20|
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永遠の謎 その3

2008.07.24 Thu

私の記憶は小学校2年生ぐらいから 突然鮮明になってくる。
だから、その頃が事件多発時代なのだ。


自分の家族以外に目が向くようになり、日々驚きの連続となったのだろう。

鼻がそっくり!

仲良しエミちゃんの近所に大沢さんという子だくさんの家があった。

一緒に遊ぶショウちゃんとお姉さんと弟は年がついていていつも一緒だった。それより大きい中学生のお兄さん、もっと大きいお兄さんもいた。いつも見る4人は、驚くほど顔がそっくりで、皆 色が黒かった。目も鼻も眉もそっくりだった。
お母さんを見たら、母子はかくあるべき、、、と言うほどそっくりだった。

ショウちゃんの家でお父さんは見たことがなかったから多分いなかったのだろう。

私たちの遊び範囲から少し外れた所に、綺麗な家に綺麗な一人っ子が住んでいた。当時一人っ子は珍しく、それだけで目立つのだが、その上その子は色白で、提灯袖のワンピースなどを着て、リボンを付けて、まるでお人形の様だった。

勿論、我らとは人種が違うので遊んだこともなければ喋ったこともない。

ある時、そのお人形さんが両親と一緒に、私とエミちゃんの前を通り過ぎた。

エミちゃんが言った。

あの子ね〜 もらわれっ子なんだよ。
ショウちゃんの妹なんだよ

エエッ〜 うそ? ホント?

その話はとても信じられなかった。
だ・だ・だって色が白くて全然違うよ。ショウちゃん兄弟はいつも組んずほぐれつ、まるでのら犬の兄弟なのに、あの子は御人形さんだよ。

それから 密かに観察をした。
そっくりだ!色は違うが、鼻の形がそっくりだ!
目も眉もそっくりだ!

もらわれっ子って人間にもあるんだ!

ショウちゃんが可愛そうになった。いつもお下がりのよれよれダブダブ服ばかりなのに、、、妹はお人形さんの様に綺麗な服着ている。

鼻の形が決め手で、私はショウちゃん達とあのお人形さんは兄弟と確信した。だけどショウちゃん達に確かめることはしなかった。
子供心に それは聞いてはいけないことに思えたのだ。

ショウちゃんは知っていたのかな?今となっては永遠の謎である。


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  1. 2008/07/24(木) 22:31:01|
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永遠の謎 その2

2008.07.06 Sun

タドンより黒く、豆腐より白く・・・

半月ほど前に、子供時代の思い出を書いたが、今日もその頃の話だ。

小学校2〜3年の頃は、仲良しのエミちゃんとよく遊んでいた。場所は大抵エミちゃんちの前のタドン干し場である。

今の人はタドンと聞いても分からないだろう。炭の粉を丸めた燃料で豆炭の親分みたいなモノダ。すでに当時、消費は減っていたらしく、タドン干し場は一部しか使われていなかった。

干し場の片隅にはタドン用倉庫件作業場の建物があり、2階は工員さんの寮になっていた。

工員さんの中にタドンより色の黒いお兄さんがいた。それまで見たこともない程色が黒く、ゲジゲジ眉毛で四角い顔のタドン兄さんは見かけによらず優しかった。夕方になると子供の遊び相手をしてくれたり、工場の中を見せてくれたりした。

私とエミちゃんはすっかりなつき、タドン兄さんの後を追っかけ回していた。


4年生になると遊びも変わり、いつしかタドン干し場には行かなくなっていた。そんな頃、母に頼まれて豆腐を買いに行った。豆腐屋はタドン干し場の4軒くらい先である。

豆腐屋にはいると
あの、タドン兄さんが豆腐を売っていた。
あの、タドン兄さんは豆腐より色が白かった。

もう、ビックリしたの何のって!
すぐにエミちゃんの家に駆け込んだ。エミちゃんは話を聞いても驚かず、涼しい顔で

「タドンのお兄さんは豆腐屋のお姉さんと結婚したんだよ。」 と言った。

何であんなに色が白くなったんだ?
豆腐屋のお兄さんになったから白くなったのか?
結婚したから白くなったのか?

なぜか納得いかない様な、スッキリしない気分であった。
タドン兄さんが色白になったことが納得いかないのか、タドン兄さんが結婚したことが納得いかないのか、自分でも分からなかった。

あの日、頼まれた豆腐をちゃんと買って帰ったかどうか、、記憶は全くない。



ブログが不具合になった時消えた日記と同じ内容です。既に読んだ方はごめんなさい

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  1. 2008/07/06(日) 22:03:50|
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永遠の謎 その1

2008.06.23 Mon

今日 近所の小学生を見かけた。
「こんにちは」と声をかけたのだが、私に見覚えが無いらしくシラ〜と無視された。

最近は見知らぬ人に声をかけられたら、返事をしない、付いていかない、が小学生の常識なのだろう。

そういえば、私にもその手の事件があったのだ!
と言うか、有った様な、無い様な、、、未だに解明されていない永遠の謎なのだ。

人形をあげるから・・・

今から60年近く前の昭和25年くらいのことだ。

近所のエミちゃんといつも 炭屋のタドン干し場で遊んでいた。
当時タドンは斜陽になっていたらしく、広いタドン干し場は10分の1位しか使われていなかった。そこが格好の子供たちの遊び場というわけだ。

いつもは4〜5人でわいわい遊ぶのだが、その日は何故かエミやんと二人だけだった。

そこへ自転車に乗ったおじさんが通りかかり 声をかけた。
優しそうでニコニコしているおじさんだ。

「明日お人形を持ってきてあげるから、ここにいてね。内緒だよ。」と言った。

二人は嬉しくてわくわく、次の日同じ時間に待っていた。勿論二人だけの内緒で。

ところがおじさんは来なかった。人形がもらえなかった悔しさで、母にそのことを言ったら、とたんに事は大きくなり、大騒ぎになった。

丁度そのころ幼女にいたずらする事件が杉並区で頻発していたらしい。小学2年の私は知る由も無いことだ。

親や先生にそのおじさんのことを色々聞かれた。

その上、朝礼で「知らない人からお菓子やお人形をもらってはいけません」と校長先生が話した。クラスでも先生が同じようなことを言った。

あれは もしかしたら私たちのことかな〜とおぼろげに思った。

でも、どうしてあのおじさんが悪い人なのか分からなかった。
「お人形をあげる」と言ったのに来なかったから悪いのかな〜?
でも、人形やお菓子をもらってはいけないと大人は言うし、、、
人形をもらわなくてもおじさんは悪い人なのかな〜?   人形から離れられない私であった。

なんで大人が騒いでいるのか、何を注意しているのか、さっぱり分かっていなかったのだ。

あのおじさんは本当に悪い人だったのだろうか?永遠の謎である。


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  1. 2008/06/23(月) 22:07:58|
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プロフィール

うばゆり

Author:うばゆり
長野県で山里生活を楽しんでいます。花、山菜採り、流木や石拾い、手芸 ウロウロ散歩で大忙しの毎日です。
スモーク (同居犬) 自分が犬であることを自覚していない、体が馬鹿デカイ事を自覚していない、そんな犬です。そこから起こるトラブルがブログに登場します。
山人氏 (同居人)戸籍上は夫と言うが定かではありません。名前の通り「山の人」で自宅にいるよりも山の中にいることが多い。従って登場場面は犬以下です。
その他、猿、熊、カモシカ、鳥、虫などが活躍します。

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